登山ってなんだろう・・・。標高?長さ?展望?、いろいろ考えるが、限定されるものでもなく、それらの要素を踏まえ、登る本人がどう感じるかで十分では
なかろうか?岩登りを始め、特に思うのは、人それぞれにいろいろな思いや感受性があり、それに満足感を得るならそれでいいはずである。どれだけ厳し
く・・・誰より上手で・・・なんか、何の価値も無い気がする。低山を歩き、楽に登る人を、アルプスを登った経験がある人が、岩登りを出来る人が、どこをど
う批判ではるだろうか?ちゃんちゃらバカげている気がする。年とともに、次第に体力が落ち、かつて皆より抜きん出て優越感に浸っていた人が、登れていた山
をルートを登れなくなり、それを誰がバカにするだろうか?バカにされるとしたら、その経験だけを今でも引きずり、常に周囲を否定し、優劣をつけたがる行為
にだと思う。
しばし、私も「退化」することに恐れを感じていた。でも、退化しつつも周囲を批判し、いつまでもお山の大将でありたりあさましい光景に遭遇すると、悲哀
を感じた。そういう場に、身を置きたくないと思った。今を楽しみ、自然を愛しいたわる気持ちをもって、どんな山であれ、どんな自然であれ、清清しく感じて
生きたいと思っている。人に頼る事でもなく、人から頼られる事でもない、そんな自分で行動できる範囲の中に、とても意義のある幸せが存在している気がして
いる。
子供を学校に送り、子供を迎えに行く限られた時間に、どう楽しむ?それはそれは、魅力的な時間の様な気がした。前夜、近場を探しながら。この「朝陣野」
という山に決めた。目的が決まり、地形図を準備した。林道を探す所からワクワクする。山頂へ楽々たどりついたが、されど1座の記録を有した。
私は、山岳会に所属しているが、大勢での山行を好まないし、休みが合わないのも原因である。時折、山の仲間達とする会話の端々に、「山岳会」というなん
だか高圧的なものを自分の背景にかざし、優越感に浸ってきたのではなかろうか?と、はっとする。楽しむことのなんたるかを自分の中に確立している人からみ
れば、なんとも滑稽な猿芝居にしか過ぎない気がした。「仲間達」という、何か大きな集団を意識し、少数を見下ろしてはいないだろうか?淡々と、実に淡々
と、自分の人生を歩くには・・・と、振り返ることが出来た「朝陣野」である。
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