水流渓人レポ 西都原古墳群/記紀の道

 今まで、水流渓人の触れなかった部分・・・・地元の事を調べてみました。
案会板より・・・・

特別史跡「西都原古墳群」

宮崎県の中部、九州山地から日向灘へ注ぐ一ツ瀬川が平野に流れ出たところ、穂北平野右岸に東西1.5q、南西4q、標高70bの洪積層の、台地がこの西都原です。北に尾鈴山をはじめ九州山地の連峰を背景には大小300余基の古墳が散財しています。県内一円の2000余りの古墳は、この西都原を中心に分布しており、このように多数の古墳が密集するところは珍しく従って「日本のふるさと」とも云われております。

西都原古墳群の特色

ここでは、各種形式の古墳を見ることが出来ます。
西都原の古墳は約1500年前ころから造られたものと云われており色々な形式の古墳があります。
・柄鏡式古墳 13号・35号古墳
・前方後円墳 女狭穂塚外31基
・円形墳   約300基あります
・横穴式古墳 鬼の岩屋古墳
・方形墳   171号古墳1基のみ
・地下式古墳 地下にあるため農耕や土木工事中に発見され、その数はわかりません。

男狭穂塚・女狭穂塚   その規模の大きさで有名です。

 その後、この地方には大和朝廷直轄の屯倉がおかれ、さらに奈良時代には日向国分寺同尼寺がおかれ、日向の国府も中世はじめまで長期にわたっておかれ古代日向の政治文化の中心となっていました。
 大正元年から6年にわたって日本考古学界初めての発掘調査行われ31基の古墳を発掘して、そのとき169号から「舟型はにわ」「子持家型はにわ」「かぶと型はにわ」が出土し、現在東京国立博物館に保存されています。
 なお、古墳群は昭和27年重要文化財特別史跡として指定されました。そして、昭和41年特別史跡公園(風土記の丘)として国県市が協力のもと、古墳とその周辺の公有化を図り整備しました。
 このように西都原古墳群は日本民族にとって貴重な文化遺産であり永久に保存されることになりました。

 

 伝承の道  「記紀の道」 

■案内板より・・■

 日本で最も古いと云われる「古事記」「日本書紀」には、日本神話の根幹をなす日向神話の事がかいてあります。その伝承の中心になるのは、天孫ニニギノ尊とその妃コノハナサクヤ姫命にまつわる説話です。この説話の道筋にあるものは式内社(神社)や伝承地であり古墳です。そして、西都市においてこの道筋となるものが、古事記の「記」と、日本書紀の「紀」から名づけた「記紀の道」と呼ぶようになった道程です。
 
●都萬神社
都萬神社案内
この神社は天孫ニニギノ尊の妃木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)を祀り都萬神社または妻萬宮と申します。
祭神木花開耶姫はオオヤマズミの命の姫君でニニギノ尊との御結婚にはコトカツクニカツナガサの上が媒酌をとりもち日本最古の正式な華燭の式典を挙げられました。故に古来からこの結婚の喜びにあやかりたいとき崇敬の厚いお宮であります。祭神木花開耶姫は青島神宮のヒコホホデミの尊の母君、鵜戸神宮のウガヤフキアエズノ尊の祖母君にあたり、宮崎神宮の神武天皇の曾祖母で日本民族の彌栄をもたらせた国母神でありますから、女性の守護神、お産の神と敬い家内安全の祈願に参拝の多い神社であります。
西都原御陵墓考地の正面にある女狭穂塚は、この神社の祭神木花開耶姫の御陵とつたえられています。(都萬神社社務所)

日本清酒発祥の地の由来
木花開耶姫命「下田を以て狭田と日う、その田の稲を以て天の甜酒を醸みて新嘗す、渟浪田の稲を用て飯に為しすぎて新嘗す」即ち甜酒は美酒の事で之を以て祀ると日本書紀の一節にある。
日本でお米を原料として造った酒の、最古の伝承である。
当神社の御祭神である木花開耶姫命が3人のお子を同時にお生み遊ばした時、母乳がわりに甘酒でお育てになったと言い伝えられている。現に酒元と云う集落もこの近くに存在している。(都萬神社社務所)

 

●御舟塚
御舟塚
古くからの伝承によると、豊葦原中国を治めるため、高天原から日向の高千穂の峯に降臨された天孫ニニギノ命ご一行は、よい国を求めて、海路で、当時、奥深い入江であったと伝えられるこの地、笠狭の御崎にご到着になった。そして、この西都原地方に本拠地を定められたのであるが、その時神がみの乗ってこられた舟がそのまま鎮まった所といわれている。(西都市観光協会)
 
●逢初川
逢初川(あいそめがわ)
ここが「古事記」の古書にでてくる逢初川だと伝えられている。
高千穂の峰に降られた天孫ニニギノ尊は、この地笠狭に移り住まわれるが、ある日散歩の途中この小川で水汲みをしていた、コノハナサクヤ姫を見初められ、結婚の申し入れをされた場所だと伝えられている。誇大の水汲みの場はすべて小川と呼ばれていた。(西都市観光協会)
 
●八尋殿
八尋殿(やひろでん)の跡
天孫ニニギノ尊が、逢初川で見初められたコノハナサクヤ姫と、事勝神の仲人によって結ばれ、二人の新婚生活のために建てられた御殿の跡と伝えられています。
館は、建て八尋(約15m程)と横八尋の家であったことから、この人達が、八尋殿と名付けて跡地を保護しました。古くは周辺に土塁もありました。(西都市観光協会)
 
●無戸室
無戸室(うつむろ)
天孫ニニギノ尊はコノハナサクヤ姫と結婚されて、一夜明けると土賊征伐にお出かけになり数ヶ月してお帰りになると姫はすでに身ごもっておりました。そこで尊は疑いになりましたので、姫は身の潔白を明かすため、戸の無い産殿をつくられ、周囲に火をかけその中で、「尊の子であれば火で焼け死ぬことはないでしょう。」といわれてヒコホホデミの尊・ホツセリの尊・ホアカリの尊の三皇子を無事出産されました。この地方の人は「火柱殿」ともいっています。(西都市観光協会)

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●児湯の池
児湯の池
西都原台地の真清水を敵時に湧水する児湯の池は、西都の神話にも語り継がれている代表的な伝承遺跡であります。
昔時この周辺は、水のにごった沼地の多いところでしたが、児湯の池だけはきれいな水が湧き、里人たちは「洗ん子」と呼んでいました。
それは、ニニギの尊に嫁がれたコノハナサクヤ姫が、近くに無戸室という産屋を建てて三皇子を出産され、産湯としてこの池の水を使われたと言うことから起こりました。(西都市観光協会)
 
●鬼の窟の石
鬼の窟の石
この地方に住む悪鬼が、コノハナサクヤ姫を嫁にと請う、これを断る為に父神のオオヤマズミ命は、一夜で石造りの館建設を所望した。
鬼はち、夜を徹して朝日の出る前にこれを完成した。父神は、早速窟の石を1個抜き取り、当方の谷間に投じて未完成とし、鬼の申し入れを断った。それがその石で石貫地区の発生となった。(西都市観光協会)
 
●鬼の窟
鬼の窟
鬼の窟古墳は直径37m、高さ7.3mの円墳で、墳丘の周囲に外堤と二重の堀を有しています。西都原古墳群では横穴式石室を有する唯一の古墳で、最後の首長の墓です。平成7年度の調査によって石室の中から組み合わせ式木棺と水底される鉄釘、耳環、金銅装馬具、須恵器、士師器などが出土し、調査終了後、現在の形で整備されました。
木花開邪姫に恋した鬼がこの窟(石室)を作ったという伝説があります。
また鬼の窟古墳の西南方向に位置する205号墳は直径14mの陪塚で、同時期に作られました。
 
●男狭穂塚・女狭穂塚

「男狭穂塚」
 古くから可愛塚(えのづか)と称せられ、天孫ニニギノ尊の御陵であると言い伝えられている。明治28年、陵墓参考地に治定さけたが、女狭穂塚を含む98.700uの地域は、現在、宮内庁の管轄下にある。それから、この男狭穂塚の形式は、墳丘が不整な形態を呈しているので明確ではないが、その全長19m、主墳丘の径128m、その高さ18mあり、女狭穂塚とともに巨大古墳といえる。

「女狭穂塚」
 男狭穂塚とともに陵墓参考地に治定されているが、天孫ニニギノ尊の妃であるコノハナサクヤ姫の御陵であると伝承されている。この古墳は、典型的な大前方行円墳であり、墳丘の全長174m、後円部の幅97m、後円部の高さ15m、前方部の幅106m、それにくびれ部には両側に造出しがついている。なお、前方行円墳としては、西日本最大の規模を有している。
 
●三宅神社
三宅神社
 古代三宅神社の三陵祭が、時代と共に変化して市民まつりに発展した。西都原と、同じ台地に位置している。
 
●日向国分寺の跡
史跡「日向国分寺の跡
一国一寺としての国分寺建立は、通説によりますと天平12年(741)年3月14日の詔(みことのり)によって始まったとされています。
後年、全国的に広がった荘園制度のもと、国分寺は衰退の方向をたどることになりますが、日向国分寺もその例外ではありませんでした。
天明8年(1788)この地を訪れた木喰行道によって復興はされたものの、明治初年、廃仏棄釈の波は日向国にも及びました。そのとき五智如来像は幸いにして一民家に移され、難をのがれたということです。
館の南側に一本の老銀杏が茂っていますが、木喰上人はこの樹に龕を造り、自作の小さな像を祭って「この樹生い育ち、樹皮が龕を包み込んだ時、我、再び世に現れれん・・・」と告げてこの地を旅だったと伝えられています。
(平成8年3月 西都市教育委員会)

五智如来像

この説明は、現地の案内文を転記したものです。

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