水流渓人の「Web Out-Door FREAKS」投稿レポート


このレポート・写真の著作権は、「関屋知学」さんにあります。
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 2014/05/20記

  


「命」それは、この世で唯一つ、一度失うと決してと戻らぬかけがえのないものである。
私は公園造りを始めて、今、改めて悔しさが込み上げてくる。
「もし、あの時、すでに、ここが公園であったなら」と・・・。


公園


「公園整備について」
 
 この近辺には公園が少ない為、子供達は狭い道路で遊ぶことを余儀なくされています。
 数年前には、当時、小学1年生の幼く尊い命が交通事故の犠牲になるという痛ましい事故が起きました。この事故は、路地からの飛び出しによるもので、被害者はもちろんのこと、加害者にとっても気の毒な事故でした。現状のままでは再び同じような事故が起こりかねません。
 子供達は宝です。交通事故の懸念だけでなく、子供達が健全に成長していく為には、自由に伸び伸びと走り回り遊べる空間が必要なことはいうまでもありません。
 高齢化の今日、何処からとも無く聞こえてくる子供達の澄んだ声は、大人達、特にお年寄りの心を癒す効果もあるのではないでしょうか。
 現在は小さな子供のいない家庭でも、その殆どの家庭で、いずれは子供達が孫を連れて帰って来るでしょう。私達は『今』だけを考えるのではなく、将来をも見据えなければなりません。
 世代は親から子へ、更に孫へと矢のごとく過ぎて行きますが、いかに時代が変わろうとも、この世から子供達がいなくなることはありません。
 子供達だけでなく、両親や祖父母とも楽しく遊び過ごせる公園が出来ることは、皆さんの願いでもあるのではないでしょうか。
 
 幸い、私達の住宅の傍らには、宮崎市の保有地である竹薮が広がっていました。この竹薮を伐採して整地すれば、広い公園が出来るのではないかと思い、公園緑地課と協議を重ね、去年の8月から竹薮の伐採をはじめて今日に至っています。
 約9ヶ月間で整備した敷地は3300平方メートル(1000坪)以上あるのではないかと思います。
この敷地は、もともとはみかんを栽培していた段々畑だったとのことで、その5段目までを整備しました。
 計画では、1段目と2段目を同じ高さに整地して芝生を植え、残りの段には桜の木を植樹する予定です。
 今月(4月10日)で下準備はほぼ終了しました。最近は、急速に伸びてきた草刈などをしています。また、伐採した木を利用して、公園に設置するベンチや トーテムポールを、チェンソーやノミで製作中です。これらは、私の友人が空港近くの自宅から、仕事の休みの日に来て製作してくれています。
私の作業はこれで一旦終り、これからは市の入札で落札した業者が重機を使って整地し、フェンスや手洗場などを設置して工事は終了します。
 そのあとは『公園愛護会』の仕事です。愛護会は、芝生を植えたり、桜の木を植樹したり、花壇を造ったり、整備や管理もしなければなりません。
 桜の木は記念樹として植える予定です。(あさひ保育園、また地区の親子、祖父母と孫などで希望される方。本数は30本ほど考えている。)

 この公園(まだ名前は決まっていない)は1段目と2段目を合わせると東西に50メートル以上の平坦地が出来るので、グラウンドゴルフはもちろんのことゲートボールなども楽しめます。
 また1000坪ほどの広さがあるので、災害時の避難場所としても利用できます。更に北側の山を越えたら、どんぐり公園に繫がります。直線距離にしたら 50メートルも無いほどです。将来この山を里山として整備し、どんぐり公園と一体化させたら、山の北側に位置しているために、なんとなく暗いイメージがあ り、利用する人の少ないどんぐり公園も生きてくるかもしれません。
 山の頂上には、100名程は収容できる平坦な空き地があり、遊歩道を整備すれば津波などの時の避難場所としても利用できます。
 現在、駐車場はありませんが、このことに関しては、今後もこの公園の整備の為に予算を組むことを市は考えているので、住民から要望の声が上がれば可能性はあります。予算の額などに関しては、地域住民の熱意次第ではないかと思います。
 今期の工事では、トイレを設置する計画はありませんが、駐車場同様、皆さんから強い要望が上がれば、来期以降の予算でトイレが設置される可能性はあると思います。
将来、花見なども出来るような、快適で美しく近隣の人達が楽しく憩える素晴らしい公園が出来るかどうかは、地域住民の皆さん次第ではないでしょうか。
 
 交通事故で亡くなった少年は、私の孫(現在5年生)と同学年で、もう1人の同学年の子を含め、いつも3人で仲良く遊んでいました。今でも時々、やんちゃ でふっくらした彼の姿を思い出します。孫達は大切なかけがえの無い友を失いました。2度とこのような悲劇があってはならないという思いから始めた公園の整 備でした。
これまでは1人でしたが、1人の力はたかが知れています。少しでも多くの人達が公園造りに参加することで、 そのパワーは、単に増えた人数分だけではなく、その何倍もの力を発揮すると私は信じます。
 多くの人達が公園愛護会に参加してくれることを願っています。    

関屋知学

 
 この公園は大塚台団地を含め、三方を山に囲まれていながらも南向きで明るいという最高の立地 条件を備えています。更に自然も豊かで、鶯やメジロなども訪れ、その鳴き声には心が癒されます。住宅地にありながら、このような素晴らしい条件を満たした 公園はあまり類を見ないのではないかと思います。
将来、大塚町のシンボル的な公園になればと考えているところです。

 上記の文は、私が大塚地区連合会の総会において読み上げた「公園整備について」である(最後の5行は後で付け足した文)。


 人の死とは悲しく辛いものである。それがつい今しがたまで元気だった少年に突然訪れてしまったらどうだろうか。
 交通事故で亡くなった少年は、私の孫と同学年で、家が近所ということもあり良く一緒に遊んでいました。ふっくらとしていて人懐っこく、やんちゃな子でし た。同学年で、近所で、登校班も同じの子供は孫を含めて3人いて仲良しでした。孫と亡くなった少年は、鉄砲の弾と一緒で、出かけたが最後、何処に行ったか 分からなくなることがよくありました。帰るべき時間になっても帰ってこず、心配で探し回ることもありました。孫にしても、この子にしても、いまどき珍しい 部類に入る、子供らしい子供だったような気がします。
 私に交通事故の第一報が入ったのは、宮日新聞の登山教室(私は宮崎日日新聞関連の会社の文化情報センターで5年間、楽しい登山と、いきいき健康トレッキ ングの講師をしていた。)で、山から帰る途中のバスの車中でのことでした。娘から「お父さんT君が事故にあった」と電話があった時、とにかく命だけは助 かって欲しいと願いました。電話では詳しいこととその後の経過が分からないので、一刻も早く家に帰りたいと思ったものです。
 T君は県病院に運ばれ、集中治療室で治療を受けているとの事でした。その間クラスメートや友達など、多くの人達が千羽鶴を折り奇蹟が起きることを願いま した。約一ヶ月間T君は頑張りましたが、打ち所が悪かったこともあり、ついに母親の胸の中に帰ることはありませんでした。幼い命が絶たれたことに、公園整 備を始めて改めて悔しさが込み上げてきます。「あの時すでにここが公園だったなら」と。
 
  今思えば、駐車場に竹が倒れてきて車に傷がついたのは、私に公園整備をさせる為の運命の導きだったのかも知れないと思うことがあります。(下記)



公園整備


 2012年の1月、私はトヨタのバンガード(黒色)を購入した。もちろん新車だ。64歳の私にとっては最後の車となるかもしれない。そんな思いもあって大切にしていた。・・・・それが・・・。

 ジムの駐車場の北側は市の土地で竹薮が広がっていた。車を購入して数ヵ月後のある日、車を止めているカーポートの上に、長さ10メートルほどの竹が倒れ てきた。幸いカーポートの屋根が支えとなって車への直撃は免れた。だが、枝の一部があたったのだろう、後部側面に3本ほど薄い数センチの傷がついていた。
それから数日後、また駐車場に竹が倒れてきた。幸い駐車場の上を通っている電線に引っかかり地面に到達することはなかったが、いつも会員が車を駐車する場 所なので心配になった。もしも会員が車を止めている時に竹が倒れてきて車を直撃したら大変なことになる。そんな思いから、市の公園緑地課に竹を伐採しても らうことにした。暫くして市の下請け業者が来て竹薮を伐採したが、長いものでは背丈が10メートルを越えるのに、境界線から奥行き1,5メートルほどしか 伐採せず、返って車が危険に晒される状態だった。
 この時思った。市を頼っていても拉致があかない、自分の身は自分で守るしかないと。
 2013年の春、季節の良くなったのを見計らって竹薮の伐採を始めた。本来この竹薮は市の持ち物で勝手に伐採することは出来ない。しかし、そんなことを 言っていたらいつ会員の車の上に竹が倒れてきて、大切な車に傷を付けるか分からない。そうなれば市の賠償責任は免れないし私も辛い思いをする。いわゆる止 むに止まれぬ行為だ。私は竹が倒れてきても駐車場まで届かない範囲、約70坪(奥行15メートル程)、数百本の竹を手ノコで伐採した。
 私が竹薮を伐採すると、出来た空き地で孫たちが遊び始めた。ある日のこと、近所の奥さんが、「子供達に良い遊び場を造っていただいて有難う御座います」と声を掛けてきた。その時、「ここが公園だったら良いのにね」と軽い気持ちで話したことが公園整備のきっかけとなった。

 数年前、近所の少年が、路地から道に飛び出して交通事故の犠牲になるという悲惨な事故が起きた。当時小学校1年生の彼は、私の孫と同学年(現在5年生) で、いつももう一人の同学年の子を含め仲良く遊んでいた。事故のあった日、たまたま孫は風邪をひいていて妻が外に出さずにいた。もし孫が一緒に遊んでいた なら、おっちょこちょいの孫のことだ、犠牲になったのは彼だったかもしれないのだ。この事故は、少年の家族、そして加害者、更には親しい者達すべてにとっ て悲しく辛い出来事だった。
 「ここが公園だったら良いのにね」と軽い気持ちで話して帰った後、もしあの時この竹薮が公園だったら間違いなく少年は亡くならずに済んだだろうという思 いが私の心を支配し始めた。子供達が狭い道路でボールを蹴ったり、自転車を飛ばして遊んだりしているのを見ていると、またあの時のような悲劇が襲うのでは ないかと心配で仕方がないことが度々あったのだ。
 ある日、市議のM君に、公園設置について市と交渉してもらえないかと頼んだ。
 彼は早速、市の公園緑地課に話しをしてくれた。その後、話はとんとん拍子に進み、8月の中旬、私は一人竹薮の伐採を始めた。

 2013年の夏は異常気象といわれる猛暑が続いた。そんな中、早朝、夜明けと共に竹薮の中に入り込み、大小様々な竹の伐採を始めた。この竹薮は蚊とムカ デノの巣で無防備に入り込んだらアッという間に蚊の大群に囲まれ散々な目にあわされる。体中の皮膚が小山だらけにされてしまうのだ。私は真夏だというのに 上から下まで長袖の衣服で覆い、更に、腰の左右に蚊取り線香を2〜3個縛りつけた。頭と顔は竹で目を突かないように大きな鍔の着いた帽子を被り竹薮に潜り 込んだ。竹薮に入り込めば外からは見えない。初めの内は、音はすれども姿は見えずといった状態だったろう。伐採する予定範囲(最初は一段目と2段目だけの 予定だった。)の竹の本数は、ざっと見て2000本ほどだろうと目安をつけ数えながら切っていった。しかし1000本を越えても先が見えない状態だった。 1250本を切り終えたても、まだまだ先が見えないのでついに数えるのを諦めた。
 午前中2時間〜3時間、長い時は4時間ほど殆ど毎日作業を続けた。初めの内は更に午後も1時間から2時間の作業をすることもあった。作業が終ると着てい た服は泥にまみれ、そのまま洗濯機に放り込める状態ではなかった。一旦バケツに入れるのだが、見る見るうちにバケツの水は真っ黒になった。
 来る日も来る日も、竹薮に潜り込み地べたを這うようにして竹を根元から切り続けた。そんなある日、鋸を握っていた右手のこぶしを開らこうとすると、中指 が戻らなくなってしまった。{実は前述した70坪(竹数百本)伐採した時点で、同じ右手の薬指が腱鞘炎(バネ指)にかかり7月に手術したばかりだった。} 又かと思ったが、病院に行くのも面倒で、そのまま伐採をつづけた。中指は酷使され続け、第二関節から先が曲がったまままっすぐ戻らなくなってしまった。更 に腫れ痛みもある。ウエイトトレーニング47年の経歴を持つ私は、重いバーベルを挙げるなど、相当ハードなトレーニングを続けてきた。それでも掛かったこ とのない腱鞘炎という病に、たかが鋸を握りつづけたぐらいで2度もかかってしまうとは想像もしていなかった。だが考えてみれば、たとえ大工さんでも鋸だけ を2〜3時間も握り続けることはあまりないだろう。彼等は切ったら次は打つという作業だが、私の場合、とにかく連続して数時間鋸を握ったままだ。相当な負 担が指に掛かり続けていたのだろう。それに竹を切り続けていると、そのうち切れ味が悪くなる。そうなれば、すぐに替え刃を購入して刃を変えればそれだけ指 へ負担は減るのだが、もったいなくて切れなくなったまま使い続けていたので、更に指への負担が増し、ついには腱鞘炎にかかってしまったのだ。{全部で、竹 を5000本から6000本切り倒し更にそれらを120センチ以内に切り分けたので手鋸で切った本数は木の枝も含めて、3万本、いや4万本を越えているか も知れない。使用した鋸の刃は、現在(4月30日)17本ほど鋸は4本目だ。}初めのうちは、刃が欠けてしまうまで使い続けることがあったが、腱鞘炎にか かって一回手術すると、初診料も含め8,000円程のお金が掛かり、返って不経済なので、その後はなるべく切れ味が悪くなったら早めに替える事にした。
 2段目までの伐採が終ると、更に3段目4段目と平坦な地形が見えてきた。このあたりの竹には今まで以上に多くの蔓が巻きつき、更にそれらの葉っぱが竹を 覆いつくしていて暗く、まさにジャングルだ。どうしたものかと少々悩んだが、子供達のために少しでも広い公園が造りたいと思う気持ちが勝り切り進むことに した。結局5段目まで平坦な地形があったので、そこまでの約3300平方メートル(約1000坪)を切り開いた。
2段目の伐採が終わり、3段目、4段目と伐採を始めると、それまで「いい加減にしてよね」と言っていた妻もすっかり諦め、何もいわなくなった。
 殆どの竹を切り終えると、木の伐採に入った。小さな木は手ノコで切り倒したが、さすがに高さ10メートルをゆうに越える大木は鋸では手に負えない。私は 親友の中俣修君に応援を頼んだ。彼は器用な男で、こんなことは朝飯前だ。仕事の休みの日、彼は空港近くの自宅から来て、大木をチェンソーで伐採してくれ た。もちろん私もこの為にチェンソーを購入して、彼に教わりながら大木を切り倒した。一番大きい木は、幹周り2、5メートル、高さは20メートル以上あっ た。チェンソーで切り倒した木は全部で20本ほどだろうか。
木を切り倒したのは良いが処分に困っていたところに、蒔きストーブに使うので木がほしいという人が現れた。これには本当に助かった。
 実は、私は公園整備の為に、エンジン草刈機、チェンソー、鋸、鋸の替刃(17本ほど)、剪定鋏、ガソリンタンクなどを購入し、更にチェンソーや草刈機な どで使用する、オイルやガソリンなどにかなりお金を使っていた。もちろんボランティアなのですべて自腹だ。近所の人の中には、私が毎日作業をしているの で、仕事でしていると思っている人もいたようだ。
 蒔ストーブに使う木が欲しいという人が現れたおかげで、木の幹や枝を切り刻む手間だけでなく、オイル代やガソリン代(チェンソーも草刈機も満タンにして30分ほどしか持たない。更にチェンソーはオイルとガソリン両方が必要)もかなり節約出来、本当にありがたかった。
 ただ、蒔きストーブに使用する木はある程度太い所だけを使うので、ほとんどの枝は私が手ノコで120センチ以内に切り刻んだのだが、それでもかなりの手間がはぶけ、大助かりだった。
 伐採した木でベンチとトーテムポールを作ることにした。もちろん作るのは友人の中俣君だ。彼はチェンソーを使って器用に丸太を半分に切り分けた。たいしたものだ。完成はこれに防腐剤を塗り、更にペンキも塗らなければならないのでまだまだ先だ。
 この頃になると、ほったらかしにしていた腱鞘炎(中指)が重症化してきて、握りこぶしを作れなくなってきた。更に痛みや腫れも増してきて、トレーニングにも支障をきたしてきた。さすがにこれ以上ほっとくわけにはいかないので、5月15日手術することにした。
 最近(現在5月8日)は雑草との戦いだ。天気がよければ殆ど毎日、朝6時頃から2時間から2時間半草刈をしている。近頃頼もしい助っ人が現れた。4月に ジムに入会した日野君(日野サイクルのオーナー)だ。彼は2キロほど離れた自宅件店舗から、自転車で、天気さえ良ければ殆ど毎日草刈の加勢に来てくれる。 そして数日前からは階段造りに取り掛かっている。おかげで上の段に登るのが楽になった。草刈と平行してこれからは階段を4、5箇所造り遊歩道を完成させる 予定だ。また彼の店の、従業員の鍋倉君という若者も数日おきに来てくれている。鍋倉君は、私が冒頭に書いた文章を読んで涙を流していたと日野君から聞き、 彼が、いかに優しい心の持ち主であるかを知った。地区も違うのに、将来を担う子供達の為になるのならと、なんの見返りを求めるわけでもなく、ただ黙々と働 いてくれる彼等に、心より感謝すると同時に本当に頭が下がる思いだ。4月の下旬だったか、5月の初旬だったか、日野君のインターネットでの知り合いが二人 草刈のボランティアに来てくれた。何でも彼等は、イクメンパパのグループに属しているという事で、日野君のホームページでこの公園の事を知り、将来こんな 公園で遊ばせたいと来てくれたのだ。作業が終って帰るとき、彼等が「今日は作業をさせていただいて有難う御座いました。」と挨拶して帰ったのには驚いた。 「有難う」と言うのは、本来私の方だ。私は思った。世の中には素晴らしい男たちが結構いるのだと。まだまだ日本も捨てたものではないぞと。公園造りは、第 一には将来を担う子供達の為だ。そこにつまらぬ大人の、屁理屈は不要だと私は考えている。親が自治会に入っているとか入っていないとかは関係ない。大人は 大きな心で子供達の成長を手助けする義務があるのだ。私は、公園造りを始めてみて、時折嫌なことを耳にする。それらは、すべて心の狭い大人の言葉だ。情け ない。しかし、殆どの大人は素晴らしい人達であり、嫌なことを言うつまらぬ大人はほんの一部に過ぎないのだが。そんな大人達に言いたい。「公園は子供達が 伸び伸びと遊び成長していくフィールドであり、年配者が、ゲートボール、グラウンドゴルフを楽しみ、仲間を増やす場でもあるのだ。ごちゃごちゃとケチなど つけず、気持良く協力しなさいよ。」と「そうすれば皆が笑顔になれるのだよ」と。心当たりのあるものにはきついかも知れないがこれは私の正直な思いだ。将 来を担う子供達の為なら、私はいつでも理不尽な事を言う者には立ち向かう覚悟でいるし、逆に自分の為なら絶対下げない頭を、子供達の為と思えば下げること もあるだろう。それらはすべて子供達が公園で楽しそうに遊んでいる姿を見たいからだ。私は約1年間たった一人でこの公園を開拓してきたが、どんな時も辛い と思ったことはなかった。むしろ楽しかった。ただ、経営しているジムを数時間ほったらかしで毎日毎日竹の伐採にあけくれていたのだ、妻はいい加減にしてよ と思っていたことだろうし、猛暑が続き、私の体の心配もしていただろう。辛いと思ったことはなかったが当然体がきついことはあった。そんな時は、交通事故 で亡くなった少年の事や、子供達がこの公園ではしゃぎ走り回る姿を思い浮かべて励みとした。
 この間、トレーニングをする余裕がなくなったこともあり筋肉は衰え力も弱くなった。私には仕事柄これが一番応えた。だが筋肉やパワーはトレーニングを始 めればすぐ元に戻る。今の時点で、私には、何よりも公園整備が大切だった。一日でも早く子供達が遊ぶ姿が見たいただそれだけで頑張ってきた。その気持ちは これからも変わることはないだろう。・・・・・・・・つづく。

2014年5月20日   関屋知学


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