蒲生城(かもうじょう)
保安4年(1123年)宇佐八幡宮の留守職藤原基通の子・教清と、宇佐八幡大宮司の娘との間に生まれた藤原舜清(ちかきよ)が、蒲生の院の総領職に補せ
られて蒲生・吉田を領し居城とした。本城は、白の地形が龍の伏した姿に似ていることから「龍ヶ城」と称され、東に健昌・帖佐城、西に北村城、南に吉田・岩
剣城、北に山田・松坂城等七支城を備へ難攻の称高き堅城であった。島津貴久による「三州平定」において、蒲生家十七代範清が弘治三年(1557年)四月二
十日城に火を放ち祁答院良重の城へのがれるまで、実に四百三十五年間の居城であった。
(現地案内板より転写)
長女が、2か月研修で、鹿児島へ行くことになった。家電付きのアパートを、学校が手配してくれていたが、寝具や衣類等々・・・車に積み込み送って来た。宮
崎方面の空は怪しかったが、鹿児島は青空が見えていた!荷物を部屋に入れ、昼食に出掛ける。蕎麦屋へ入ったのは、別に引っ越しを祝ってではなく、空いた腹
を早く満たしたくて飛び込んだ先が「蕎麦屋」だっただけで、高い料金だった印象しか残らなかった。食事の後は、ホームセンターで足りないものと自転車を買
い、アパートへ戻る。荷物も少ないので片付くのも早く、夕食まで・・・と思っていたが、早めに戻ることにした。しばらく、我が家に女子はママだけとなる。
次女も福岡で一人暮らし・・・。長女も、2か月だが家から居なくなると思うと、やはりしんみりするオヤジである。
このまま帰宅すると、自宅で食事となりかねないので、寄り道して「蒲生」の「龍ヶ山」の三角点を踏む事にした。城跡なので公園みたいな所にあるのだろう・・・と思っていたが、本丸跡の藪を抜けてのピークとなる。まぁ、1分程度だが・・・。
都城の「なかむら」で、魚料理を食べて帰宅する。
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