夫婦で歩く、こだわりの薩軍敗走路
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この可愛嶽の登山口は、延岡を過ぎ「和田越え」のトンネルの先にある。やもすると、この「可愛嶽突破」は素晴らしい武勇伝の様にも思えるが、この突破成功の後、祝子−三田井−南郷村−西米良−須木−小林・・・と、敗走を続けるのである。
官軍5万、薩摩軍3千・・・、延岡奪還のため和田越えの戦いで、俵野に逃げ帰った西郷隆盛は「解散令」を布告した。それでも、この可愛嶽突破に600余名が従う・・・・。
「逢いはせなんだか あの和田越で 薩摩なまりの 落人に」
あまりにも鮮烈な、野口雨情の歌をたどるように敗走路(登山道)を歩いた。
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■可愛嶽突破■(西郷記念館案内看板より)
明治十年八月十五日、和田越えの戦いに敗れた西郷軍は、俵野・児玉熊四郎宅に窮した。
十六日には党薩諸隊に対し、解散令を出した。
十七日の軍議は、降伏か、決戦か、突破か、選択が迫られた。午後四時、西郷は「全軍まず進んで三田井に出、然る後その方向を決するも晩からず」との決意を表明した。
午後十時、可愛嶽突囲戦の隊編成が発表された。
前軍指令 河野主一郎 辺見十朗太
中軍指令 桐野利秋 村田新八
後軍指令 中島健彦 貴島 清
総勢約六百、可愛嶽の頂上をめざした。
十八日午前四時半、英式ラッパ一声総攻撃が開始された。ふいをつかれた官軍は総くずれとなり第一旅団三好少将は屋敷野の前衛隊へのがれた。可愛嶽突破に成功した西郷軍は、西に進み、和久塚地蔵谷で一夜を明かし、上祝子でさらに一夜を明かし、二十日、鹿川越し、鹿児島への敗走の途についた。
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長井村俵野の児玉熊四郎宅、ここで軍議を開いた。資料館となっている。(宮崎県指定文化財)
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資料館の駐車場を利用させていただく。掃除をしていたおばちゃんが、快く登山口を教えてくれた。
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桐野利秋宿営の岡田宅
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岡田宅のすぐ横が登山口
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■桐野利秋宿営の地
明治十年八月十五日和田越えの戦いに敗れた西郷軍は、ここ俵野に集結した。
児玉熊四郎宅に本陣が置かれ、最後の軍議が開かれた。
党薩諸隊に対しては、解散布告令が出され、可愛嶽突囲戦が出され、可愛嶽突破が決議された。
ここ岡田宅(当時の戸主は児玉初治)は、桐野利秋が投宿し、最後の作戦指令を出したところである。又、この地は八月十七日の夜の可愛嶽突囲戦の出発地点にもなった。(案内看板より)
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ザレの頭、千丈覗の絶壁が近づいてくる。
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水のみ場に突き当たると、右のロープ場を通り、巻くように登る。
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炭焼き釜の跡
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ザレの平
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千丈覗の絶壁が圧倒的に迫ってくる。
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前屋敷
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山頂
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山頂からの展望は素晴らしかった。登山道を登り上がって、山頂標識後方に、大崩山・木山内岳・桑原山・鬼の目山が見わたせた。特に、大崩山のワク塚・小積ダキがくっきりと見える。少し、左に視界を移すと、行縢山の北面が見えていた。実は、あまりにも違う形に、ママとしばらく言い合いながら、ようやく決着した。
そして、延岡市内を流れる、五ヶ瀬川・祝子川・北川がみごとに曲線を描き、日向灘に注いでいる。銀色に光る海面を見ながら昼食をとる。
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行縢山を北面より眺める
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手前は、蛇行し海に注ぐ「北川」。そして、延岡市内に祝子川、五ヶ瀬川。
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下山は、烏帽子岳を通り北尾根ルートで下山する。
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工事中の林道を横切る。この日、ガンガン発破作業が行われていた。
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登山口の資料館に戻る。歩いたコースを思い出しながら、薩軍の敗走路に思いを馳せた。
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■8月17日
可愛岳突破行・・・・・その後
8月18日 中津大四郎は隊士に投降を説き、俵野天満宮で割腹自刃
小倉処平は、俵野三足の高畑山山中で自刃
8月19日 祝子川の包囲第2線を破る
8月20日 鹿川村、中川村を落とし、三田井街道に進む
8月21日
田原、石越を越え岩戸に入り、午後に三田井突入
8月22日 深夜、三田井より鹿児島に向け出発(坂本−飯星峠−七山)
8月24日 七山−南郷村神門−渡川村
8月26日 銀鏡谷−米良村
8月27日 米良天包山を抜ける
8月28日 須木、そして小林
9月01日 鹿児島へ(370余名) 正午前に私学校を占拠
9月04日
貴島清の率いる決死隊官軍本営の米倉を襲うが全員戦死
9月10日 城山の頂上に本営を移す
9月13日 岩崎谷に降り、洞窟を本営とする
9月22日
西郷は全軍に対して檄を出す。永訣の酒宴を開く
9月24日
午前3時55分、官軍砲台から3発の砲声を合図に、官軍は一斉に8ヶ所から攻め上り、午前5時には頂上を攻略。最後の砦、岩崎谷へ・・・
洞窟を出た西郷は桐野、村田、池上、別府、辺見、桂、島津など幹部諸将と洞窟前に整列
し無言のまま、岩崎口に向けて走る。
途中で、東郷平八郎の実兄小倉壮九朗、国分寿助自刃
。
桂久武が流れ弾で倒れる。
午前7時、城山からの流れ弾が西郷を撃ち抜く「晋どん、ここんへんでよか」別府は「ごめん」と太刀を振って首を落とす。
享年49歳。
桐野銃弾で倒れる。
別府、村田、池上、辺見、切腹。
私学校の生徒達を抑えきることが出来ず、青年達の声に担がれて西郷は、明治10年2月15日、ついに立ち上がり「西南戦争」へと突入。そして、この城山で幕をとじる。
官軍戦死者4653名 負傷後死者2190名 戦傷者9292名
薩軍死傷者15000名
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この日は母の8回目の命日だった。朝、子供達も登校前に、一緒に墓参りをした。
父は51歳、母は65歳で世を去り、後は親の分まで楽しんでくれ・・・などと、それはあまりにも無責任だと思う。死ねば、責任も問えないじゃないか。文句も言えないじゃないか。叫ぶほどに親の抱擁の中で、私は今までの寂しさを伝えたい。無念だと思う。こんな素晴らしい自然の中を歩きながら、何一つ感動を伝えることの出来ない歯がゆさは、たまらなく辛いと思った。
私が、中学生の頃に母から「双石山」の話しを聞き、登山に興味を持った。親は、たくさんの夢を私に与えてくれたと思う。 本当は、「ありがとう」と言いたいのだが、それも出来ない。
この道は、無念の多い道なのだろうか?薩軍の敗走路を歩きながら、たくさんの思いを感じて見ようとした。心地よい自然と、心洗われる展望が待っていた。山頂に立ち、この世に生をくれた両親に深く感謝した。
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8:00自宅発--9:55資料館駐車場--10:10登山開始--11:10ザレの頭--12:00分岐--12:45山頂--昼食--13:45下山開始--14:20分岐--14:30烏帽子岳--15:00林道出合い--15:50登山口車着--18:00自宅着
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