2002/06/26

なんとなく、銀鏡へ・・・そして「峠」を越えてみた。→地図

 今日の日記 雨が降りそうな一日。山登りに行くつもりは無かった。水曜休みの一日は、子供達が学校に行っている間の夫婦山行か、私単独での登山が多い。でも、ちょっと、ドライブ程度のデートもそれもいい。「何しようか?」「お金ないよ!」「じゃ、どこかの峠道で残ったラーメン食べようか!」ってな具合に、西都市から国道219号線を一ツ瀬ダム方面へ走らせた。新聞で、歴史ロマン街道なる道路整備事業が進み、新しく山に穴をこじあけたトンネルが開通したのを見た。そこから南郷村にでも・・・と、思っていたら分かれ道から時間規制の通行止めである。
 気を取り直して、銀鏡から南郷村へ向かうことにした。渓流沿いに高度を上げで行くと、「五郎カ越」峠をむかえる。ここは、「西郷軍敗走の路」・・・政府軍に追われた西郷軍が、延岡・可愛岳突破後、下祝子、鹿川越、湾同越、三田井経由で、坂本、飯干峠、七ツ山、鬼神野、茶屋越を通り、ここ五郎ヶ越を経て銀鏡、天包山、村所に出て、上槻木、須木そして小林に至る山中彷徨ルートである。峠に立つ、「西郷敗走の碑」を見ながら、下り始めると霧に包まれた南郷村の山々が目に入る。人は、足で歴史を刻んできた。何ヶ月もかけて彷徨った西郷軍の通った道を、数時間でたどろうとしていた。峠で、お湯を沸かしながら「豊か?」「便利?」の言葉が響いていた。

【恋人の丘】
 村を見下ろす小高い丘にある六角形の東屋は「扶餘」の落花岩に建つ、美しいロマンの舞台となった「百花亭」を再現したものです。ここには韓国との友好の証として届けられた「絆の鐘」と呼ばれる一対の鐘があり、そこには、ハングル文字で「百済古都扶餘から百済の里南郷村に送る音」とメッセージが記されています。韓国では、親子や恋人、兄弟姉妹で鐘を鳴らすと、ここで誓った愛は永遠にこわれないとされています。
(南郷村のページより抜粋)

恋人の丘から南郷村を見る
オカトラノオ
百済の里「南郷村」

【西の正倉院】
奈良の正倉院と同一品を含む、貴重な文化財が存在することから計画された博物館。これまで門外不出とされていた正倉院図を元に屋根瓦や柱などのすべての部材や、瓦の葺き方までを、奈良正倉院と寸分の違いもなく、ここに再建。建築にあたり、宮内庁の協力のもと、奈良国立文化財研究所の学術支援・建設大臣の特別許可を受け、造営材には、すべて木曾の桧を使用。また内部に至るまで、忠実に復元されており、建物の中では、数多くの宝物の展示と、百済王族の歴史伝説が詳しく紹介されています。
その再建にあたった大工の数、延べ9,831人。まさに大工の一人一人の情熱の結晶で造られ、ついに完成した西の正倉院。その姿は、間口33m、高さ13m、奥行き9.1mもある堂々たるたたずまいを呈しています。それは、1,300年もの長い歳月、貴重な宝物を守り通してきた威厳ともいうべき、建築物としての誇り漂う美しさです。(南郷村のページより抜粋)

【神門神社】
718(養老2)年創建。正祀の祭神は大山祀命と百済国伯智王(禎嘉帝)が祀られています。社宝の銅鏡には奈良正倉院の御物と同一品を含む優品があります。また、毎年旧暦12月には、禎嘉王と別れ別れに高鍋町の海岸に漂流した第一皇子を祀る木城町・比木神社から神門神社を訪ねる親子再会物語「師走まつり」(国指定記録保存すべき無形文化財)が、旧暦12月18日から20日頃の金曜日から日曜日に行われます。また、2000年に「九州南部の本殿建築の発展を知るうえで重要」と高い評価をうけ、国の重要文化財に指定された。
(南郷村のページより抜粋)

 「百済の館」は、日韓交流のシンボルです。百済最後の都となった韓国の古都「扶餘(プヨ)」の王宮跡に建つ(元)国立博物館の客舎をモデルに原寸大で復元されたもの。韓国大使館や総領事館などの協力で建てられ、屋根の反り返りや色使いがとても鮮やかな、美しい建物です。瓦や敷石は、韓国から取り寄せられ、梁や軒を埋め尽くす、赤、緑青といった極彩色の丹青(タンチョン)は、本場韓国の名工の手によるものです。(南郷村のページより抜粋)

南郷温泉「山霧」

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